2012/05/21 12:49
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- 小林 武史 -

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小林 武史(こばやし たけし、1959年6月7日 - )は日本の音楽家。音楽プロデューサー、作詞、作曲、編曲、ミュージシャン(キーボーディスト)。特にMr.Childrenのプロデューサーとして有名である。

MY LITTLE LOVER、Lily Chou-Chouの元メンバーで、Mr.Children・MY LITTLE LOVER・レミオロメン・Salyuなどが所属する事務所「烏龍舎(ウーロンシャ)」代表取締役社長(創設者)。ap bank代表理事。音楽制作者連盟理事。山形県新庄市出身。山形県立新庄北高等学校卒業。

Mr.Childrenの全作品の編曲に携わり、一部作品では作詞・作曲も手掛けているため、しばしば「第5のメンバー」と称される(Mr.Childrenではすべてのライブ・プロデュース[演出]も手がけ、またサポートキーボードとして参加することもある)。サザンオールスターズのプロデュースで評価を集め、現在はMr.Childrenの他にレミオロメン、Salyu、鬼束ちひろなどのプロデュースを行っている。自身もメンバーとして加わっていたMY LITTLE LOVERでも大きな活躍を見せ、現在はBank Bandのメンバーの一員としても活動中。

1996年に、MY LITTLE LOVERのボーカルのAKKOと結婚したが2008年元日に離婚した。AKKOとの間に2女がいる。

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- 幼少期〜音楽界へ -

5歳からピアノを始めた。兄の影響もあって多くの音楽、特に洋楽を聴いて育った。音大に行き、バンドを組んで自作曲を演奏したり米軍キャンプ回りをする一方、20歳ころにはスタジオミュージシャン(キーボーディスト)としても活動を始める。1980年には業界プレゼンライブ「第1回原宿音楽祭」に出場し、ベストボーカリスト賞を受賞。そのころ杏里への楽曲制作を依頼され、初めて作曲を手がけた「思いきりアメリカン」(1982年4月21日)がヒット。これを機に作曲家としても活動を開始(この曲以外の杏里への提供楽曲では、作曲のみならず、すべて作詞も手がけている)。また、このとき杏里のアレンジをしていた佐藤準のすすめでアレンジャー業も開始した。

25歳のころ、大村憲司との出会いをきっかけに、井上陽水、坂本龍一、高橋幸宏、大貫妙子ら、数多くのアーティストの楽曲やライブにキーボーディストとして参加したり、松本隆・筒美京平コンビの楽曲の編曲を手がけるなど、あっという間に引っ張りだことなる。

1988年、1989年には、小林自身が歌っているデモテープを聴いた大貫妙子の勧めで「小林武史」としてソロアルバムを2枚出したが、ほとんどプロモーションが無かったこともありセールス的には大きな影響を生み出せなかった(「このころ、すでに女性ボーカルを探していたが見つからなかったので自分が歌ったが、難しかった」と語っている)。

歌詞

- 日本を代表するプロデューサーへ -

1987年に桑田佳祐の1stソロシングル「悲しい気持ち (JUST A MAN IN LOVE)」(1987年10月6日)、2ndソロシングル「いつか何処かで (I FEEL THE ECHO)」(1988年3月16日)のアレンジを担当し、ヒット。続く桑田の1stソロアルバム『Keisuke Kuwata』(1988年7月9日)のアレンジ、プロデュース業を任され、当時あまりメジャーではなかった小林が高く評価されるきっかけとなった。「このアルバムのシェフは小林君、自分は素材として気持ちよく仕事ができた」と桑田は語っている(桑田著『ただの歌詞じゃねえかこんなもん〜』より)。

このころからサザンオールスターズの編曲にもかかわるようになり、長らく活動を休止していたサザンはシングル「みんなのうた」(1988年6月25日)で復活する。桑田が「あの曲はサザンとして、開き直りだった」というように、小林によるアレンジはそれまでにないアップテンポで斬新なものだった。その後サザンのコンサートの定番となり、必ずといっていいほど要所で歌われる曲になっている。

続く、サザンのアルバム『Southern All Stars』(1990年1月13日)ではほとんどの曲のアレンジを手がけた。桑田が監督した映画『稲村ジェーン』の音楽監督も務め、同映画のサントラ『稲村ジェーン』(1990年9月1日)をプロデュース。映画主題歌だった「真夏の果実」(1990年7月25日)もヒットし同曲と、「希望の轍」はサザンライブの定番の曲となった。翌年1991年は、原由子の2枚組ソロアルバム『MOTHER』(1991年6月1日)をプロデュース、ほとんどの曲のアレンジを手がけた。

このころに桑田佳祐らとSUPER CHIMPANZEEという(小林曰く、“冗談のような”)バンドを組んで活動。シングル「クリといつまでも/北京のお嬢さん」をリリース、日清パワーステーションで洋楽、NHKで邦楽のカバーライブをしたりした。このライブの模様は桑田佳祐『Acoustic Revolution Live at Nissin Power Station 1991.3.26』(DVD/VHS/LD)で見ることができる。

1992年は「涙のキッス」「シュラバ★ラ★バンバ」(ともに1992年7月18日)などを含んだ『世に万葉の花が咲くなり』(1992年9月26日)のアルバムプロデュースを手がけたが、桑田とのコラボレーションアルバムとしてはこれが最後となり、シングルとしては「クリスマス・ラブ (涙のあとには白い雪が降る)」(1993年11月20日)を最後に、桑田との共同作業から離れることになった。

このころ、ほかにプロデュースを手がけていたアーティストとしては、大貫妙子、渡辺美里、小泉今日子などがおり、作曲・編曲を手がけ、小泉唯一のミリオンセラーとなる「あなたに会えてよかった」(1991年5月21日)で日本レコード大賞編曲賞を受賞。後に「この曲でメロディーメーカーとして世間に認知されたことが大きな自信になった」と小林は語っている。

着うた

- TK時代 -

Mr.Childrenの資質を見抜いていた小林はデビュー時(1992年)からプロデュース。当初はなかなかヒットしなかったが、アルバム『Atomic Heart』(1994年)のころより大ブレイク。また、かねてよりデビューさせたかったAKKOとギタリスト藤井謙二をMY LITTLE LOVERとしてデビューさせる(1995年)。曲はほとんど小林の作詞作曲による。シングル3作目の「Hello, Again 〜昔からある場所〜」(藤井との共作)、1stアルバム『evergreen』ともに200万枚を超える大ヒット。ヒットメーカーの名を不動のものとし、当時trfやglobeのプロデュース業で大ブレイクしていた小室哲哉とイニシャルが同じ事から「TK時代」と呼ばれた。MY LITTLE LOVERはその後、以前ほどの売れ行きを見せなくなったが、Mr.Childrenは依然として大きなセールスを続け日本を代表するアーティストとなった。

また1995年には桑田とMr.Childrenを共演させたシングル「奇跡の地球」を発表。また岩井俊二監督の映画『スワロウテイル』(1996年)の音楽監督を務め、同映画の主人公を演じたCharaがボーカルを務める架空のバンド・YEN TOWN BAND名義で出したシングル「Swallowtail Butterfly〜あいのうた〜」(1996年7月22日)、アルバム『MONTAGE』(1996年9月16日)をヒットさせた。岩井とは映画『リリイ・シュシュのすべて』(2001年)でもタッグを組み、映画と連動した架空の歌手・Lily Chou-Chou(役はSalyu)の作品をリリースした。

画像

- 近況 (2000年以降) -

その他にもエレファントカシマシのアルバム『ライフ』(2002年5月2日)、SMAPのシングル「友だちへ 〜Say What You Will〜」(2005年1月19日)など多くのアーティストを手がけた。

SalyuはLily Chou-Chouとしてのデビュー時(2000年)からアルバム『TERMINAL』(2007年1月17日)までプロデュースを手がけ、その間のほぼ全曲で作詞・作曲・編曲をしている。

レミオロメンはシングル「モラトリアム」(2005年1月12日)、アルバム『ether』(2005年3月9日)以降の作品で全面的にかかわっている。

「ap bankfes '05」をきっかけに知り合った一青窈へは、「指切り」(2005年12月7日)、「てんとう虫」(2006年11月29日)、「冬めく」(2007年1月31日発売予定だったが発売中止)と立て続けに楽曲提供・プロデュースを行っており、一方で彼女に対しても、小林がプロデュースするSalyuや綾瀬はるかの楽曲への作詞依頼を行うなど共作が続いている。なお2007年1月26日発売の写真週刊誌「フライデー」、及びそれを後追いしたスポーツ新聞や雑誌等において、小林と一青の不倫疑惑がスクープされた。小林の所属事務所烏龍舎(社長は小林自身)はこの件に関し「プライベートのことなのでコメントしません」としていたが、5月10日、AKKOとは別居状態であること、すでに離婚に向けた話し合いがなされており、一青と再婚するのではないかということがスポーツ新聞やテレビで報道された。

なお上述のとおり、女優・綾瀬はるかの1st、2ndシングルをプロデュースしており、デビュー曲「ピリオド」(2006年3月24日)ではEvery Little Thingの持田香織、2ndシングル「交差点days」(2006年9月13日)では一青窈と共作するなどの活動を行っている。

しばらく休止していたMY LITTLE LOVERは2006年7月、AKKOのソロプロジェクトとしてエイベックスに移籍することが発表された。再始動シングル「り・ぼん」(2006年11月8日)、アルバム『akko』(2006年12月6日)では小林は作詞・作曲は行わず、一部の曲でキーボーディストとして参加、エグゼクティブプロデューサーとしてクレジットされている。復活第二弾シングルとなる「あふれる」(2007年3月7日)では作曲・編曲・プロデュースを手掛けているが、その後の作品やライブ活動にはかかわっていなかった。しかし2008年1月3日、元日にAKKOと離婚したことを発表。その際の「現在はすでに良い友情をお互いに感じています」というコメントを裏付けるかのように、シングル「ラビリンス」(2008年3月12日)、「イニシャル」(2008年4月2日)、「アイデンティティー」(5月発売のアルバム収録)の3曲の作曲・プロデュースを手掛けることが発表された。

2007年2月20日、約2年半にわたって活動休止状態にあった鬼束ちひろのプロデュースを手掛けることが明らかになった。3月17日、小林主催のap bankのイベント『AP BANG! 東京環境会議 vol.1』にて復活を果たし、シングル「everyhome」(2007年5月30日)、アルバム『LAS VEGAS』(2007年10月31日) をリリース。

2007年5月30日、烏龍舎の自社レーベル“ORS(OORONG RECORDS)”の設立を発表。その第1弾として8月1日、小林プロデュースのPhilHarmoUniQueがミニアルバムをリリース。

映画音楽の製作にも意欲的であり、『深呼吸の必要』(2004年) 、『地下鉄に乗って』(2006年)、『幸福な食卓』(2007年)、『ミッドナイト・イーグル』(2007年)の音楽監督を務めている。

待受

- ap bankに関する活動 -

2001年に桜井和寿・田原健一とAcid Testとして活動したことがきっかけとなり、2003年、桜井・坂本龍一らと共に環境プロジェクトへの非営利融資機関「ap bank」を設立。

ap bankの活動資金や融資金を集めるために、小林と桜井を中心としてBank Bandを結成。2004年1月にラフォーレミュージアム六本木にてライブ「BGM〜Bank with Gift of Music for ap bank Vol.01」を開催、10月には30万枚限定のアルバム『沿志奏逢』(2004年10月20日)をリリース、11月には恵比寿ザ・ガーデンホール、大阪ブルーノートで各3公演ずつライブ「BGM Vol.2〜沿志奏逢」を開催し、ライブDVD『BGM Vol.2〜沿志奏逢』(2005年3月30日)をリリース。日本のロック・ポップスをカバーした。

初期のライブは小規模なものであったが、2005年には静岡県つま恋にて野外フェス「ap bank fes」を開催、2007年までの3年連続で成功させている。

2006年にはBank Band with Salyu名義のシングル「to U」(2006年7月19日)をリリース。反戦や環境問題などをテーマにしたBank Band唯一のオリジナル曲で、「筑紫哲也 NEWS23」(TBS)のテーマ曲としても使用され、ヒットした。

2007年3月16・17・18日にはクラブイベント「AP BANG! 東京環境会議 vol.1」を開催した。

またap bankの活動に関連して雑誌『SWITCH』に連載を持ったり、「ap bank dialogue」と題した講演を行うなど、その活動は多岐にわたる。世界的にも活動が認められつつあり、2007年2月にはロンドンでアル・ゴアと対談、10月にはアメリカの雑誌『TIME』の特別号『Heroes of the Environment(環境問題の英雄たち)』(2007年10月29日号)にて、小林と桜井、ap bankの活動が紹介された。この号に掲載された日本人はほかにトヨタ・プリウスチームのみである。

ライブやフェス、CDやDVDの収益はすべてap bankの活動資金や融資に充てられている。

live

- エピソード -

* FMラジオJ-WAVEで、「Sign of Thursday」という番組のナビゲーター(DJ)を一年手がけたことがある(1998年4月-1999年3月、木曜の20時からの一時間番組)。この番組では毎週音楽的テーマをあらかじめ決め、それについて曲を紹介しながら小林がコメントするという内容であった。主に海外の著名アーティストや、プロデューサー、また Mr.ChildrenやMY LITTLE LOVERのCDが発売される時は番組で特集も行った。この番組でのBGMも小林が手がけ、それらの一部はMY LITTLE LOVERの『The Waters』で聞ける。

* 身長が高く183cmほどあるとされるが詳しくは不明。

* 目つきが鋭く、Mr.Childrenが初対面したとき、田原は目を合わせられなかったらしい。小林は「なぜか田原だけ、空気中のある一点をずーっと凝視してた」と語っている。

* 髪を中ほどまで伸ばす独特のヘアスタイルを長く維持している。

* 桜井らによれば、テレビに出るとおとなしくなるが、普段の小林は非常に雄弁らしい。

* 喋り方が独特で、その巧みな話術はミスチルのメンバーから「催眠術のようだ」と言われている。鬼束ちひろは歌詞の中で「マジカルマン」と例えている。

* 初めてプロデュースを依頼されたのは、パンクバンドであるザ・ロック・バンド(旧 アナーキー)のアルバム『四月の海賊たち』(1987年8月発売)である。

* “水”がとにかく好きらしく、趣味は水泳・ダイビング。そのためか小林のかかわる作品には「水」に関する詞やイメージが多数登場する。「宇宙」の話も好き。

* 「将来的には珊瑚を植える人になりたい」と語る(2006.9.2 「ap bank dialogue '06 vol.4 in シブヤ大学」)。

* 自身も野球をやっていたこともあり大の野球ファン(特に巨人軍)らしく、楽曲や物事をよく野球に例える。レコーディングの時に見た長野オリンピックで金をとった団体ジャンプにもいたく感動したという。

* 麺類が好きで、特に日本蕎麦には拘りがある。お茶も好きで、事務所の名前にするほどである。酒もたしなみ、酔うと饒舌になるらしい。2007年3月の「AP BANG!東京環境会議 vol.1」のリハーサル時は、1週間以上毎日牛丼を食べ続けた。

* サザンと同じ事務所に所属していた女優・松下由樹とは8年間交際し、結婚寸前と言われていたが1995年に破局。直後にMY LITTLE LOVERのAKKOとできちゃった結婚をする。なお1988年5月10日、『ザ・ベストテン』に桑田佳祐「いつか何処かで」がランクインし、桑田・小林・松下の3人で出演。小林はキーボードとコーラス、松下はピアニカを演奏した。

* 桑田佳祐の『Acoustic Revolution Live 』 (1991)で桑田による小林のメンバー紹介で、「キーボード、ベース、グロッケン、横森良造のモノマネ。すべてやってくれます」「彼とは僕がソロアルバム作ったときからの仲で、今も原坊(原由子)のアルバム作ってるんですけど、朝7時、8時まで一人コツコツ作ってくれてます。これからも、彼が嫌だといっても(笑)、サザン関係に巻き込んでいきます」「本性はおこりんぼです」とコメントされた。また、このころはパーマをかけていた。

* AKKOとの二人の娘はアメリカ生まれ。

* 血液型はB。

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- 音楽的エピソード -

* 専門の演奏楽器はピアノ、キーボード、シンセサイザー、アコーディオン、グロッケンといった鍵盤楽器であるが、ベースやギター、コーラスを担当していることもある。

* 一番好きな楽器はピアノとのこと(一人で伴奏、主旋律をひくなど多くの事ができるから)。

* 近年は電子的なキーボード音色よりも、弾き手の感情がより緻密で繊細に音に表れ、時を経ても鮮明さを失わないアコースティックピアノに魅力を感じると言い、自らも積極的に演奏している。

* ライブの際、ピアノで伴奏をする際などには、わざと出だしをずらしたり独特の間を作ることで、歌い手への効果を狙うことがしばしばあるという。

* 中学生の時に特に影響を受けたのはジョン・レノンの『John Lennon/Plastic Ono Band(ジョンの魂)』(1970年)、ピンク・フロイドの『The Dark Side of the Moon(狂気)』(1973年)という。

* スティーヴィー・ワンダーの『Songs in the Key of Life』(1976年)に影響を受け、MY LITTLE LOVER『Topics』の冒頭にその影響が見られる。

* バート・バカラックを敬愛しており、キラーチューンとして「(They Long to Be) Close to You」を挙げている。また2008年の来日コンサートに際してパンフレットに寄稿している。

* アメリカよりはUKの音楽が好きらしい。

* 1999年にビートルズのプロデューサー、ジョージ・マーティンとラジオで対談し、「君はこっちじゃもう有名だよ」と褒めてもらったことがある。

* 作曲家デビュー当初からイントロ等のキャッチーなフレーズ作りには定評があり、桜井らからは「イントロ大王」と称される。編曲を手がけた多くの楽曲でそのフレージングセンスはうかがえるが、ミスチルでは「Tomorrow never knows」、「innocent world」、桑田佳祐では「悲しい気持ち」、サザンでは「希望の轍」、「真夏の果実」、「涙のキッス」などが有名である。ミスチルの初ブレイクとなったアルバム『Atomic Heart』では小林が「このアルバムの始まりはジャジャジャジャーンだ」と決定、そこから一曲目「Dance Dance Dance」の残りのメロを桜井とともに仕上げていった。

* 音楽プレーヤーや、音楽対応の携帯電話の普及による、昨今の鑑賞環境の変化も考慮して、使用する楽器を選んだり楽曲のアレンジをしているという。携帯プレイヤーでの聞こえを良くするためにギターの音を絞ることもあるという。その際「iPodのチャカチャカした音でもバンプ(BUMP OF CHICKEN)とかの集中力の高い音楽なら伝わるものがある」と語っている。

* Mr.Childrenの「I'll be」という曲では桜井に酒を飲んで酔わせリラックスさせて歌うことを提案した(アルバム版のみ)。

* サザンオールスターズ、桑田のプロデュースをやめたことについて、「当時、ニューヨークで見つけた新しい音楽に桑田さんを持っていきたかった。しかし、サザンファンには『サザン=青春』と考えている人が多すぎてできなかった。その替わりをミスチルに求めたような気がする」と語っている。

* 自身のアレンジ技術について「僕は、鳴っている楽器を整理することで、聴き手に多くの楽器がさも鳴ってないように感じさせることが得意なんです」と語っている。

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- 発言 -

* 「プロデュースというのは、例えばだれかが肩が凝ってると、自分はツボを押してあげて血行をよくしてそのアーティスト本来の良さを引き出す作業のようなものだと思います。ただ、『また凝ったんですよ』としょっちゅう言われるとこっちも『またかよ』ってなりますけど」(ラジオより)

* 「日本音楽界の大きな部分を小室さんが担ってて、そして小さな一角の部分で僕がやってるって感じ」(1990年代中期、TK時代と呼ばれていたことについて)

* 「ほっとけばビジネスの側面だけから“ヒット・プロデューサー”と呼ばれる立場。でも、一人よがりだったかもしれないけど、人間の本質にコミットする音楽を作ってきたつもり。音楽が持っている“人間を解放する力”“人間をつないでいく力”“自分を偽らないで伝える力”。そうしたものを表現できたと思っている」(R25より)

* 「わくわくするポップ感覚って、高いところから人を見下ろすんじゃ駄目で、視線を下げて、どんな人とも同じ視点で通じてくものにしないといけない。それじゃないと共感は生まれない」

* 「桑田さんは歩く電通」(桑田佳祐の詞はどの言葉も広告のキャッチコピーのようにキャッチーである、ということを桜井にそう表現した)

* 「いつかまた彼(桑田)と仕事ができたらと思うんです。何しろ、偉大なボーカリストだと思いますから……」- 「H」より

* 「優しいだけの男なんて誰も求めてねぇよ」―― Mr.Childrenのデビュー当時、20歳そこそこの可愛い恋愛の詩を書いていた桜井に対して

* 「ミスチルの影響で、その後の(日本音楽界の)フォーキーな流れが始まった」

* 「今、桜井和寿が歌うから意味があるものを」 ―― シングル「innocent world」の歌詞に悩んでいた桜井に言った言葉

* 「深海はコンセプト色の強いアルバムで、僕が意図的に桜井をそういう方向に引っ張っていったというのもある。それくらい当時の彼は無軌道だった」―― Mr.Childrenのアルバム『深海』について

* 「今度はアフリカや国際問題に目を向けてはどうだろう?」(2006年、Mr.Children「箒星」作成後に次のアルバムを方向性を議論する際に小林が提案した案、ただし桜井はそのテーマにあまり乗り気ではなく「HOME」が作られる)

【wiki引用】

歌詞


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